公開: 2023年3月10日
更新: 2023年5月9日
第2次世界大戦後、日本は、連合軍の占領を経て、旧連合国とサンフランシスコ条約を締結し、独立を取り戻しました。とは言え、日本の国は、米国軍の保護下にありました。日本政府は、その後、警察予備隊を発足させて、日本の国土を警察予備隊が守るようになりました。この警察予備隊が、その後、今日の自衛隊になりました。
1960年に、日本政府と米国政府は、日米安全保障条約を締結すべく準備を始めました。「安保」とは、この「日米安全保障(条約)」を短く表現した言葉です。特に、共産主義国であったソビエト連邦の攻撃から、日本をどう守るかが問題だったのです。日本には、その経済力がなかったからでした。戦後の混乱期が続いていた1960年頃、日本社会はまだ非常に貧しく、日本社会における大学進学率は10パーセント前後でした。大学生は、特別な人々であり、日本社会の将来のエリート達でした。
日本の大学生達は、日米安全保障条約は、武力の放棄を謳った、新しい日本国憲法の精神に反するとして、反対の立場を前面に出して、条約締結に反対の立場を表明していました。政府は、警察の機動隊を動員して、学生運動を抑え込もうとしました。国会周辺では、毎日、学生のデモ隊と、警察の機動隊が衝突し、多くのケガ人が出ていました。そのような中で、デモに参加していた女子学生が、衝突中の事故で死にました。
この事故によって、学生のデモは、より過激になってゆきました。自由民主党の党首で、総理大臣であった岸伸介氏が率いていた日本政府も、追い詰められつつありました。岸総理大臣は、「日米安全保障条約を締結したなら、自分は首相の座を降りる」と宣言し、自分が首相の座を降りることを交換条件として、安保条約の調印を成し遂げました。
その後、1970年にも日米安全保障条約の改訂が行われました。この時も学生たちによって、安保反対デモが組織されましたが、大学進学率が20パーセントに近づいていた日本社会では、、大学生は既に日本社会のエリートではありませんでした。一般の国民からの支援はなく、学生運動家たちは、世論から見放され、彼らの活動はどんどん過激になってゆきました。そして、学生運動の派閥間抗争も激しさを増しました。その結果、一部の過激派学生たちが、軽井沢の「あさま山荘」に立てこもり、警察の機動隊と銃を打ち合う事件を起こしました。日本赤軍の若者達による「あさま山荘事件」でした。